ここしばらく家族の不幸でブログを中断しておりました。
精神的にも肉体的にもだいぶ落ち着いてきましたので、
ここで自分の気持ちを整理しておこうと思い、
これまでのことを綴ってみようと思います。
自分語りの長文ですので、スルーしていただいて構いません。
父親というのは息子にとっては偉大な存在。
特にうちの父は真面目で厳しく、努力家で勉強家。
それゆえに権威ある地位まで上り詰め、
定年退職したこれからが余生の楽しみだったと思います。
そうあって欲しかった。
死因は肝臓癌。
C型肝炎からの発症です。
この数年間、自ら注射を打ちながらの自宅治療を続け、
昨年は検査入院を繰り返して体に気をつけていました。
しかし癌の発生を確認し、今年の1月にその摘出手術を行ないました。
これで晴れ晴れと過ごせると思いきや、術後の経過が芳しくありませんでした。
術後は自宅へ戻ってきていましたが、2月初頭に緊急入院。
数日で帰れると聞いていたのであまり大ごとには捉えていませんでした。
忘れもしない2/14の雪の日、母からの電話。
「お父さん、余命1ヶ月だって」
自分の前では泣かない母も、この時ばかりは泣き声まじりでした。
それを私から妹へ伝える際、なぜか「余命」という単語がなかなか発せられませんでした。
絞り出すように伝えると、電話の向こうで妹も泣き声に変わり、
家族全体が大きな悲しみに襲われた瞬間となりました。
寒さは残酷です。落ち込む気持ちをさらに増幅させられましたから。
これまでも1時間ほどかけて都内の病院に毎日通っていた母。
治ると信じて60歳を越える体で電車で通うのは並々ならぬ気力。
しかし余命を告げられた14日、
何か糸が切れたように、次の日の見舞いを妹に託していました。
母の体も心配でしたが、そのサポートは妹がしてくれていました。
自分は見舞いに顔を出しながら2人を元気づける役回り。
15日、仕事の合間に見舞いに行くと、来ないと言っていた母の姿がありました。
「今までは行かなくちゃという気持ちだったけれど、今は来てあげたいのよね」
一緒にいられる時間があまり無いこともあって、できるだけ側にいてあげたいのでしょう。
同じ家族でも、夫婦の絆は子どもには到底すべてを理解できません。
母の体も心配ですが、やりたいようにさせてあげようと兄妹で決めました。
このときの父は、まだ会話はでき、自分で体勢を変えられるものの、
どんな姿勢をとっても気持ち悪さが取れないという状態。
頑張って手術をしても苦しむ日々が待っていようとはあまりにも残酷。
母は冷静に対応しつつも、父のいないところでは可哀想だと嘆いていました。
余命を告げられて1週間。
2/20は薬が効いているのか、以前よりも穏やかな様子。
しかしほとんど話すことができません。
寝ているようで、意識はあるといった感じでした。
2/21は前日と打って変わって、まるでいびきをかいて寝ているかのような状態へ。
素人目からも長くはないと感じさせられる状態です。
医師からは、おそらく2、3日中には・・・ということでした。
どこが余命1ヶ月なのかと。
しかしここまでくると、命の長短の見当は難しいことも分かっていました。
夫婦の勘なのか、その日、母は病室に泊まることに。
余命を告げられたあの日から、自分はいざという時のことを考えて、
連絡すべき人のリストアップや、葬儀屋との話を進めていました。
臨終後に母が通常の状態でいられるかはわかりません。
なのでその時がきたらすべて自分が動くと決めていました。
21日はそうしたすべての準備が整った日だったんです。
さらに、なぜかいつもよりもかなり早くに眠くなったので早々に就寝しました。
22日の早朝、母からの電話で目覚めました。
「お父さん、死んじゃった・・・」
一瞬、言葉に詰まったものの、
「そうか、すぐ行くから待ってて」
とだけ言い、まとめていた荷物を持って駆けつけました。
病室には母と妹がおり、特に泣き顔ではなく、来るべき日が来たねという雰囲気。
おそらく自分が来る前に妹と一緒に号泣していたのだと思う。
これまで病状の悪化を段階的に聞かされるたびに、
少しずつ神経を削らされてきたこともあって、家族全員がこの時点ですでに疲労困憊。
父の死は悲しいものの、その状態からは解き放たれたという気持ちもありました。
まるで寝ているだけにしか見えない父が、霊安室へ運ばれる。
寒くて気持ちが滅入ると聞いていたものの、さほどそういう感じはありませんでした。
1人ずつ線香をあげる際に、
「お父さん、頑張ったねえ」
と、涙ながらに母がこぼした瞬間、自分も危うく涙しそうでした。
自分なんかよりも人望があって立派な父。
まだ60代。
これまで頑張ってきた姿を見てきていると、
あと10年、20年は自分の好きなように余生を楽しんでも罰なんて当たらないような人です。
昔からファンも多く、この歳になっても人を惹き付ける魅力を持っていました。
そんな人間が老衰ではなく病死かよと、やるせない気持ちでいっぱいです。
しかしここで自分が泣き崩れては父に叱られる、
むしろここからが私の出番だと、そう戒めて涙は耐えました。
すでに連絡していた葬儀屋から寝台車が到着し、母妹を同乗させて自宅へ。
私は電車で向かうことに。
父母はすでに生前墓を作っていたこともあり、霊園と葬儀屋へ連絡。
前もって話をしていたのでスムーズに取り次ぐことはできたものの、
斎場が押さえられないという話になり、葬儀は一週間後と言われました。
「この時期は葬儀が多いんですよ」の言葉に、
多い少ないの時期なんてあるのかとツッコミを入れつつ、
霊園からの案で、隣接する寺を開放してもらえることになりました。
これで24日に通夜、25日に告別式という早いスケジュールに。
その日は妹と手分けしての電話連絡。
顔の広い父だったので、かなりの数。
先にリストアップしていたのは正解でした。
23日は一日だけゆったりと、帰ってきた父と過ごすことになるものの、
部屋にたたずむ父の遺体を見るのが辛いのか、
母は通夜までどこかに預けられないかとこぼし始めました。
なんとかして安置所を押さえられたものの、
翌日になると可哀想だから自宅に置いておきたいという考えに変わっており、
預ける件はキャンセルしたりと、バタバタとした日になりました。
母のしたいようにさせてあげるのも役目。
その日は通夜の規模や葬儀一式における見積もり交渉。
食事周りは別の担当者と、とにかく決め事の多かった日となりました。
喪主は自分。
これまで頑張ってきた母には少しでも休んでもらいたいですから。
24日、通夜。
連絡してから2日しか経っていないにも関わらず、
多くの弔問者に見送ってもらいました。
また予想外にも私の友人や会社の方もかけつけてくれて、
そのときは嬉しさで涙が溢れそうになったことを覚えています。
ですが涙は目の中にとどめ、流さないように堪える。
礼儀ごとには厳しい父だったので、
こうした式はきっちりとこなすべきだと言われかねません。
生前は病に苦しみながらも最後まで私の前では泣き言を言わなかった父。
ならば私がしっかりしなくては父の恥になると耐えることにしました。
25日、告別式。
前日に来られなかった方の弔問もあり、改めて父の顔の広さを痛感します。
その後、喪主のあいさつ、位牌や写真を持って霊柩車で火葬場へ向かうという流れ。
TVでは見かけていた光景が、まさか自分にもやって来るとは思ってもいませんでした。
家族と親戚の数人で火葬場に向かい、骨だけになる父の姿。
既に祖父母で経験していたことが幸いしてか、それほどショックではありませんでした。
むしろ病気の体から解放されて、身軽になってあの世で楽しげに過ごす父を思い浮かべると、
晴れやかな気持ちもあったなと。
奇しくもこの日は春の暖かさ。
住職さんの導きで、迷わず成仏してくれていると良いなという気持ちでした。
ちなみに、箸で骨をつまんで壺に収骨するのは、何かの形で経験しておくのが良いと思います。
いきなり近しい家族では、ダメージは相当大きいはずですから。
そうしてすべての式が夕方には完了。
父の死を見届けてからの4日間は、あっという間でした。
むしろこの早いスケジュールは望んでいた形でもあります。
葬儀まで日にちを空ければ、それだけモヤモヤとした日を過ごすだけですから。
親戚のフォローにも助けられ、滞りなく済んだ葬儀。
その日にいったん都内の自宅へ戻り、次なる準備を整えて翌日に実家へ。
外側から見れば、通夜と告別式で終了のように見えますが、
人が1人亡くなる、それが一家の大黒柱ともなると、その後の手続きが膨大です。
役所手続き、名義変更、様々な相続の書類提出が待ってます。
今はその真っ最中。
戸籍等、父親の書類も必要ですが、私自身の書類も必要になってくるため、
しばらくは自宅と実家を行き来することになりそうです。
しかし山は越えたところもあるので、
これまでよりも自分の時間が取れるぐらいには生活サイクルが戻ってきました。
生前の看病で精神的に疲れ、疲労困憊のところへ葬儀で肉体的にも疲れ、
その後の書類で頭が疲れる。
ただ、打ち合わせや見積もり相談、書類の作成等は仕事で慣れていることもあって、
このあたりは別バージョンのようにこなす感じなので、
そういうことに慣れている自分が適任だったなと今にして思えます。
父母への心のケアはやはり女性のほうが上手いので妹の存在は大きかったです。
入院中の病状の変化を聞かされるたびに精神ダメージを受け、
食事が喉を通らないこともあった時に比べると、今はだいぶ気持ちは楽になりました。
あのときは好きな番組を見ていても心ここにあらず。ゲームなんてしたいとも思わない。
仕事もなかなか集中できず。
大丈夫だと思っていても、どうにもコントロールできない気持ちもあるんだと知りました。
かといって誰かに話を聞いてもらっても、こればかりは家族以外では気持ちは通じません。
今にして思えば、亡くなると分かってからの日々が本当に辛かったです。
余談ですがブログ記事の作成とコメントへのレスだけは気持ちを切り替えることができ、
それなりに明るく振る舞えていたと思います。
そういう場所があっただけでも、ブログを続けていて良かったと思えました。
家族の死はもとより、看病疲れや葬儀の忙しさなども、
経験してみて初めて分かるものだと思えました。
これはどんなに上手く説明しようとも伝えられない。
なのでみなさんにその事を分かってほしくて綴ったわけではなく、
あくまでも私的な経験談として残して置くつもりで書きました。
それでも最後まで読んでいただいた方がいれば、ありがたく思います。
両親が健在な方にとっては、心のどこかで
「親とは亡くならない、そこに居て当然」のような気持ちがあると思います。
私もそうでした。
しかしいつかは必ず誰にでもやってくることです。
そのときは、第1子の方は家族をリードしてあげてください。
兄姉がいる方はサポートしてあげてください。
家族一丸となる姿が、亡くなった方への手向けでもあると思います。
以上、葬儀の件はここまでとし、
今後はこれまでどおり記事を書いていきます。