決して安くはない旅費を費やし、夜行列車に乗って、暑い日差しの中を歩いて来た自分に、今更ながら失笑する。仮に彼女と都合よく出会えたとしても、向こうが覚えている保障もない。子供の頃に2日間だけ遊んだ相手を覚えているものだろうか? そんなくだらない質問を自分に投げかけては、おかしさと、バカバカしさと、悲しさに襲われる。
考え方を変えてみよう。ここはそれでも私にとっては思い出の場所だ。その思い出の場所に来たことに価値があるのではないだろうか。あの自由帳に書かれた文字を見たときから、柵から見える風景に心をときめかせていた。そしてこの神社も。
来てみたかった。ここへ再び来れたことに、すでに満足感を得ているではないか。それで十分かもしれない。
そうだ、河原へ行ってみよう。あそこにも想い出がある。
気持ちを入れ替えて、河原へ向けて足を進めることにした。
いや、正直に言うと、彼女のことを考え、出会えないことを思うと悲しい気分になった。だから強制的に気持ちを入れ替えたのだ。
柵から見える風景をもう一度見る。
ああ、やっぱりここは素敵な場所だ。しばらくボーっとしていたいぐらいだ。時間はあるんだ、少しぐらいは海から吹く風を楽しんでもいいだろう。
そう思って足を止め、海を眺める。神社の木々が風にあおられザザザと大きな音を立てる。心地良い風が私の体を包む。私を通り過ぎた風は、後ろの方で木々を揺らすようだ。後方には"木のトンネル"がある。
ヒュウウ……、ザザザ……。
何度かその繰り返しを耳で楽しむ。
「ケイちゃん……」
風にのって、そんな言葉が聞こえてくるようだ。
え……?
後ろを振り向くと、1人の女の子が立っていた。白い帽子にワンピース。ストレートの黒く長い髪が、海からの風を受けて小さく揺れていた。
「ケイちゃんだよね……?」
一瞬、ワケがわからなかった。まったく予期していない事態に、自分の体が凍りつく。
動けない……
言葉も出ない……
ゆっくりとこちらへ歩いてくる女の子。その表情は、驚きと嬉しさを語っていた。
「美佳ちゃん……?」
ようやく出たのはその言葉だけだった。自分でもちゃんと言えたのかどうかわからない。
「うん、美佳です。ケイちゃん……ケイちゃんだ……」
嬉しさのあまりか、飛びついてくる彼女。私も思わず彼女の背に両手をまわす。それでもまだ信じられない。
とても、いい匂いがする。なんて小さく、今にも折れそうな体なんだろう。少し力を抜く。
「10年前の約束、覚えていてくれたんだ。ねぇ、本当にケイちゃんなんだよね!」
「ああ、間違いないよ。俺もビックリした。まさか本当に出会えるなんて」
お互いに目を合わせてほんの少し距離を取る。
それでも彼女の手は、私のTシャツを軽く掴んだままだった。
「だって、あのあと連絡もしなかったから、忘れていてもおかしくないよ」
「本当のことを言うと、忘れていた。でも、あのころのメモを見つけて、それで思い出したんだ。危なかったよ、ギリギリだった」
必死に全部を語ろうとするが、出てきた言葉はそんなものだった。うつむいた私の顔を覗くように見つめる彼女。
「私は忘れていなかったよ。たった2日だけど、私と遊んでくれた男の子だもの。約束したし、指きりもした」
「ごめん」
「なんで? 忘れていたのは仕方ないよ。でもケイちゃんは、ちゃんと今ここにいるじゃない。それで十分だよ!」
「……うん」
本当に嬉しそうな笑顔を見せる彼女に、恥ずかしさが込み上げてくる。
「ああ、夢みたい! すごいことだよね、これって! だって10年ぶりに再会するんだよ。どちらかが忘れていたら、会えなかったんだよ。すごいよね!」
彼女のテンションの高さに押され、なかなか言葉が出てこなかった。それよりも、10年前の印象そのままに、可愛らしく育った彼女が眩しかった。満面の笑顔。本当に嬉しそうだ。来て良かったと改めて痛感する。
「そういえば、美佳ちゃんがここへきたのは、俺を……その、待っていてくれたということなのかな?」
その問いかけに彼女は私から視線を外し、何かを考えるような表情に変わった。何かまずいことでも言ってしまったのだろうか? しばらく待っていると、落とした視線をスッと上げて、こちらを見ずにゆっくりと語り出した。
「すっごい賭けだった。あのとき"ちょうど10年後"って言ったから、同じ日の同じ時間に行ってみようって。でも家の前にはいなかったから、きっとここにいるんだろうなーって思って」
「あ、そうか、指きりしたのって、家の前だったか。しまった……」
「ううん。きっとここだと思ったから、いいの」
「どうして?」
彼女と視線を合わせたいという気持ちからか、自分の方から彼女の顔を覗き込んでいた。そこへすかさず彼女がクルッと首を向ける。顔が近い。反射的に顔を引いてしまう。
「あのときも……約束した日も、ここで偶然会ったでしょっ。だから偶然の縁起かつぎで、ここへ来てみたの。そうしたら10年前と同じように、ここにいるんだもの。ビックリしゃちゃった!」
パァっと明るく表情を変える彼女。彼女もきっと内心は驚いているに違いない。それを隠すかのように、テンションを上げているようにも見えた。それともそれが彼女の地なのか。そんなことを思いながら、私の言葉を待つような視線に言葉を返す。
「来た甲斐があったよ。10年前の自分たちに感謝しなくちゃ」
「うん!」
すでに互いの体は離れてはいたが、目と目は見つめ合ったままだった。10年越しの出会い。彼女の言う通り、どちらかが忘れていれば、こんな嬉しい再会はなかった。なぜ2人はこんなにも約束を忠実に守ろうとしたのだろうか? 自分でも不思議に感じた。
「俺……、本を読むようになったよ。美佳ちゃんのおかげかも」
「ほんとー!? 覚えてるよー! ケイちゃんがお願いしたんだよね、この神社で。やっぱりご利益あるんだー。すごーい!」
小さく拍手をする彼女。
可愛らしく微笑む彼女に、ずっと考えていたことを聞いてみることにした。
「ひとつ、聞いていい?」
「なぁに?」
「美佳ちゃんのお願いは、叶ったのかな?」
「叶ったよ」
即答だった。少しは焦らされるかと思った。
「それは何? 教えてよ」
「ないしょ」
これも即答だった。でもこの返しは想像ができた。
「言うと思った。あのときと一緒だ」
子供の頃と変わらぬ対応。それが嬉しかったのかもしれない。自分でも気づかないうちに笑みがこぼれていた。
「子供の頃から成長していないからね、べー」
言葉だけの“べー”。舌を出さなくても可愛らしい“べー”にドキリとしてしまう。
「いや……その……女の子らしくなったと思うよ」
出会ったときから言いたくて仕方なかった言葉が、思わず出てしまった。本当はもっと歯の浮くセリフが頭をよぎったが、やめておいた。
「ケイちゃんは変わらないね。すぐにわかったよ」
「ははは……」
それがどういう意味かはわからなかった。だから、どう返していいのか戸惑った。
「ねぇ、また神社でお願いしてみようか。ここ、当たるみたいだし」
両手で私の腕を掴んで元気良く発せられた声。
「いいね。今度は何をお願いしようかなー」
迷ったふうな私のその仕草に、顔を覗き込むように見つめてくる彼女。
「苦手なものは、もう無いの?」
「そんなわけないよ。そうだなー……。読書は克服したけど、作文がまだ苦手かな?」
「だったらお願いしてみようよ」
「本当は、大学合格とかがいいんだけど……」
「そういう一瞬のものよりも、長く身につくお願いの方がいいと思わない?」
「なるほど。そういう考えはなかったな……」
そう言って、神社の前まできた私たちは、2人で合掌を始める。サラサラとなびく木々の音だけがあたりに響き渡る。
目を開ける。
あの時と同じように彼女を見る。すると彼女が目を開け、視線が合う。
「お願いした?」
「ああ、してみたよ」
「もしかしたら将来、作文とか論文とか、そういうのを発表していたり?」
「そこまでは無理でしょっ、ははは。……で、美佳ちゃんは、今度はどんなお願いをしたの?」
私を見つめていた目を細め、ちょっと悪戯っぽい表情になった。そのまま正面を向いて寺を見上げる。やっぱりまた、ないしょと言われるんだろうな。
「10年前と一緒」
「え? 一緒って、さっき叶ったって言ってたよね?」
「叶ったけど、またお願いしたの」
「どういうこと? さっぱりわからないんだけど……」
再び木々がサラサラとなびく。
彼女は耳元の髪をかき上げながら、私の顔をジッと見つめた。
「ケイちゃんと、また会えますように……」
(完)